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最後まで髷った「岩吉」の誕生日-未公開-
今日は・・・
195歳の誕生日の「人」
1825年10月26日(文政8年9月15日)生まれ
明治維新後の新政府の基礎をつくった「人」
明治維新(めいじいしん)
明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。
出典 ウィキペディア(Wikipedia)
軍服姿の西郷隆盛 床次正精作。
床次は薩摩藩士族で西郷とは面識があり
床次の描く西郷の顔は実物によく似ていると言われている。
この倒幕運動の中心人物が「西郷隆盛」で
明治政府による天皇親政体制への転換の中心人物が「岩倉具視」です。
まずは「廃藩置県」を実施します。
※明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
明治4年(1871年)2月、三条邸に岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助ら政府首脳が集まり、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる必要があるということで一致。薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8,000人の親兵が急遽組織された。
7月14日には明治天皇が全知事を皇居に呼び出し、廃藩置県を宣告した。
政府の予想に反して全ての知事が賛同し、懸念された抵抗や反抗はまったく見られず、この日藩はひとつ残らず日本から消滅した。所領を失った「大名」たちは全員東京へ召集され、華族としての責務を果たしていくことになる。
日本は一つの国家、一人の元首のもとで統一国家としてスタートを切ることとなった。
出典 ウィキペディア(Wikipedia)
そして日本の近代化に向けて
2つに分かれて改革を行いました。
●国内組(留守政府)は・・・
西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣・大隈重信らで「三大改革」(学制・徴兵令・地租改正)をします。
●海外組(岩倉使節団)は総勢107名
大久保利通・木戸孝允・(桂小五郎)・伊藤博文・・・津田梅子・通訳として同行していた新島襄など
欧米諸国に出向き1年10か月にわたり視察。不平等条約改正への一歩を踏み出す。が・・・なによりも欧米の文明に驚愕した・・・そして日本鉄道の設立など、日本の文明開化のために貢献した。
※「不平等条約改正」江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること
左から木戸孝允、山口尚芳、髷(岩倉具視)、伊藤博文、大久保利通
ちなみに、岩倉は明治4年(1871年)8月に断髪令が出た後も髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
岩倉 具視(いわくら ともみ)
1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)
日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。
維新の十傑の1人。
※特に枢要な3人「維新の三傑」
西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允
※「麻生太郎」は「大久保利通」の末裔です。
出典 ウィキペディア(Wikipedia)
枢要
スウヨウ
物事の最も大切な所。最も重要であること。
また、そのさま。
そして最後は・・・
喉頭癌で死にます。
1883年7月20日・・・享年57歳。
日本で初めて「国葬」された人です。
※国葬(こくそう)とは、国家に功労のあった人(皇室、王族、元首、政治家、軍人、学者、芸術家、宗教家、環境保護活動家など)の死去に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀のことである。
国家の儀式として国費によって行われました。出典 ウィキペディア(Wikipedia)
おはようございます。2020年10月26日(月曜日)
それでは第二百一話の「はじまり」です。
2020年10月26日ですね・・・
10月26日とは?年始から299日目(閏年では300日目)
年末まであと66日ある。
今年もあと・・・
66日
続く
今日のお話は「終わり」です。
文章の所在が分からなくなったり、言葉では辿り着けないこともありますが・・・
今日も最後まで読んでくれて本当にありがとうございます!
今日という一日に「少し」の 勇気 を
そんな「違・新」を
それではまた明日。