「東京大空襲」-未公開-

76年前の今日・・・

1945年(昭和20年)3月10日、東京が爆撃された。

たくさんの人が死に・・・

たくさんの大切な「何か」を失った

1日で10万人が犠牲になり、100万人が負傷・・・住居を失った

アメリカが戦闘機(B-29)で1500トン分の焼夷(しょうい)弾を投下した結果だ

東京は燃やされた( 約41平方キロを焼き尽くした)

京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する、ナパーム弾であるM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。

 

日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、民間人に大きな被害を与えた。

 

爆撃被災者は310万人死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸となった。

 

京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。

 

の中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲・作戦名:Operation MEETINGHOUSEを指す。

 

この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。

 

なお、当時の新聞報道では東京大焼殺と呼称されていた。

 

※罹災者(りさいしゃ=被災者)

 

出典 ウィキペディア(Wikipedia)

3月10日・・・0時8分」最初の焼夷弾は投下された

空襲は、はじまった・・・それから7分後の「0時15分」に空襲警報が鳴った・・・

次々に爆弾は投下され、東京は火の海になっていった・・・

2時間の間、爆弾は投下され続けた・・・

そして「2時37分」空襲は終わり警報は解除された・・・

が・・・

東京は「8時過ぎ」まで 燃え続けた 

たった一晩で・・・10万人以上の命が失われた。

イレンは響き、爆撃される・・・悲鳴の中・・・あたり一面は、火の海・・・

そんな中、生きようとする人・・・火を消そうとする人・・・助けようとする人・・・

死んでいく人々・・・突然「失う」んだ・・・

突然に・・・

どれだけ怖かっただろう、言葉では届かない・・・

富士山を見下ろしながら飛行するB-29東京侵入の第一の目印は富士山であった


焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近

右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。


鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)


3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺


恵比寿で焼け野原の上のバラック小屋に住む親子


東京駅のプラットホームの屋根も焼失した。


空襲で全焼した東京文理科大学


はようございます2021年3月10日(水曜日)
それでは第三百三十六「はじまり」です。

2021310ですね・・・

3月10日とは?年始から69日目(閏年では70日目)

今年もあと・・・297

そして今日は・・・

七十二候の一つ

桃始笑(もも はじめて わらう)

意味は 桃の花が咲き始める

七十二候(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと。

各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている

桃の花がはじめて笑う「日」

※「咲」という字には、笑うという意味があり「笑」には咲くという意味があったと云われています。

続く

今日のお話は「終わり」です。

文章の所在が分からなくなったり、言葉では辿り着けないこともありますが・・・

今日も最後まで読んでくれて本当にありがとうございます!

今日という一日に少し」の 勇気 

そんな「忘れない

それではまた明日

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