Article記事
その小さな回「帰+起」点-未公開-
デザインは常に人間の役にたつものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである。
デザインの本質は人間をデザインするコトだと著者は指摘する。
デザインは、個人や集団が求めるものを与えるのではない。のちに求めていればと思うものを与え、我々はあたかもそれを求めていたかのようなふりをするのだ・・・
本日の一冊
「我々は人間なのか?」 デザインと人間をめぐる考古学的覚書き
ビアトリス・コロミーナ/著 マーク・ウィグリー/著
牧尾晴喜/訳
本書は、先史時代(石器)から現代(ソーシャルメディア)に至るまでの、人間と人間が作り出した人工物(artifact)の関係性を照らし出すことで、現在の私たちが理解している「人間」と「デザイン」の意味に揺さぶりをかけます。
ダーウィンやプレストウィッチらによって発見された、生物学的・考古学的な「人間」。
その人間像や工業化に影響を受けた、実はポスト・ヒューマン思想への反応である近代デザイン。
こうして19世紀に見出されたデザインから、アメリカでつくられたグッド・デザイン、そして20世紀を代表するデザイナーであるル・コルビュジエやチャールズ&レイ・イームズたちへ……
デザインの変遷をたどることで、よいデザインは「なめらかさ」という麻酔であること、そこには「欲望」や「亡霊」が隠されていることが暴露されていきます。著者の歩みはそこで終わることなく、生命すらデザイン可能なバイオテクノロジー、携帯電話とソーシャルメディア……と、現在私たちが生きる「デザインの帝国」を問い直します。
第3回イスタンブール・デザイン・ビエンナーレのエッセンスを凝縮して新たに展開させた本書は、デザインという鏡に映る私たち「人間」の姿を追い求めます。その導き手となる問いこそが、
“are we human?”
(我々は 人間 なのか?)なのです。
デザインと人間をめぐる考古学的覚書き WEBサイト
途切れることのない人工物の発明によって人間が誕生する。その発明には不気味な鏡がついていて、人間は自身が作ったものの中に自身の姿を見ることで人間になるか、作ったものの中に自身の可能性を見出すことで人間になる。したがって、人間はただ道具を発明するわけではない。
道具が人間を発明するのだ。もっと正確に言えば、道具と人間はお互いを生み出しあっている。思考と動作領域を補綴(ほてつ)的に拡大する人工物によって、人間は人間らしくなる。
補綴は身体の単なる拡張ではない。それは”人間”に必要な身体の構造なのである。
補綴(読み)ホテイ
破れなどを繕いつづること。転じて手を加えて不足などを補い、よくすること。
肉体的・心理的感覚・・・それは「人」が「人」であった証だと思う。
摩擦こそが「感覚」であり、感覚は「摩擦」であった・・・
良いデザインは麻酔である。近代デザインというなめらかさが摩擦を取り除き、肉体的・精神的感覚を排除する・・・
そして・・・
機械と人間の融合こそが、人間の「リ・デザイン」であり、ポスト・ヒューマン思想を体現する葦だと著者は語る・・・
「ポスト・ヒューマンという思想は20世紀の近代デザインの後に起こるものではない。それどころか、ポスト・ヒューマン思想への応答が近代デザインだった」と・・・
ポストヒューマン(英: Posthuman)は、トランスヒューマニズムによる概念。仮説上の未来の種であり、「その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れていて、現代の感覚ではもはや人間とは呼べない」ものとされる。
ポストヒューマンは、過激な人間強化と自然な人類の進化の組合せによって生み出されると説明されることもある。この場合、ポストヒューマンと他の仮説上の(人間ではない)新たな種との違いは、ポストヒューマン自身かその先祖が人間であったという事実だけである。従って、ポストヒューマンの前提条件としてトランスヒューマンがある。トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。
ポストヒューマンの形態として、人間と人工知能の共生、意識のアップロード、サイボーグなども考えられる。例えば、分子ナノテクノロジーによって人間の器官を再設計したり、遺伝子工学、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブルコンピューティングなどの技術を適用することも考えられる。
出典 ウィキペディア(Wikipedia)
もう目の前には「人」から「人」を超越した「何か」に進化する日が近づいている。
2045年・・・シンギュラリティ(技術的特異点)を迎える・・・
AIの能力が人間を凌駕し、AIは人間を超えた存在となるという・・・
その先は・・・もうどうなるかなんて誰にも分からない・・・
人間とモノ(機械)は一体化し、人は、その「デザイン」に「デザイン」される。
僕たちがつくる。その新しい「何か」を僕たちは孕む・・・コトになる。
障害(者)という言葉はこの世からなくなるだろうし・・・
身体は、意識や精神のための補綴・・・になる・・・
今までの常識や当たり前は・・・
・・・
我々は今、バーチャルとリアルの間のある種のハイブリッド空間で暮らしている。ソーシャルメディアは物理的空間、つまり自宅や都市の空間を再定義し、再構築している。
20世紀の初めにマスメディアが登場したときのように、ソーシャルメディアは、公的なものと私的なもの、内部のものと外部のものを、もう一度描き直す。ソーシャルメディア時代のデザインは、小さな画面上の空間で起きていることだけではない。それは我々の住む空間をリ・デザインするものである
人間とは結局、デザイナーでもなければ人工物でもなく、それらの相互依存なのである。それはテクノロジーと結びついた生命体が持つ全き有機性の条件であり、それこそが生きているという事実、そして、デザインに関する執拗な問いを生じさせる事実なのである
残された時間は少ない・・・
「人間の後にくるもの」・・・
「人間を乗り越えたもの」・・・
「私はロボットではありません」・・・
「私はどっちでもありません」・・・
「私はどっちでもあります」・・・
人として・・・
そんな回帰(起)点になるような表現を「つくる」
そんな人として大切な「何か」の居場所で在りたい。
そして、この時代に生きた。証を・・・
人として生き抜く・・・その「応え」を遺したい。
そんな思い出を後世に託したい。
その新しい「何か」になる前に・・・
もし、現在の「人間」の定義に疑問を投げかけるデザインだけがデザインであるとしたらどうだろうか?
多様性と可塑性、つまり自身の能力を変化させる能力によって定義される・・・著者はそう述べた。
可塑性
(読み)カソセイ
それでは第百十九話「はじまり」です。
文章の所在が分からなくなったり、言葉では辿り着けないこともありますが・・・
今日も最後まで読んでくれて本当にありがとうございます!
今日という一日に「少し」の 勇気 を
そんな【デザイン】を
それじゃあまた明日。