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今日は「児童福祉の父」の日-未公開-
トーマス・ベンジャミン・ケニントン “Orphans “/イングランド人画家の手になる1885年の油彩画。姉弟と思しき2人の貧しい孤児を描いている。邦題は確認できないが、原題(英題)は「孤児達」の意。
今日は2020年9月22日ですね。
137年前の今日・・・
1887年(明治20年)9月22日に、日本で1つの孤児院「孤児教育会(後に「岡山孤児院」と改称)」が岡山市内のお寺(三友寺)に誕生しました。
※「孤児院」という名前は法改正によって1947年(昭和22年)以降は使われなくなりました。
今では「乳児院」「児童養護施設」「自立支援ホーム」と呼ばれています。
その「孤児院」の誕生は・・・キリスト教に入信した「石井十次」が巡礼途中で偶然、女性から男の子を預かったことから始まります。「石井十次」は医師志望で岡山医学校(現在の岡山大学医学部の前身)で学んでいた時の出来事です。
その後「孤児」への思いから・・・医師をあきらめ学校を中退します。
このとき「石井十次」は20代前半・・・
その後、大原孫三郎や小林富次郎商会(ライオン)アメリカや中国の篤志家(慈善事業や奉仕活動に熱心な人)からの支援を受けながら、孤児院・保育所・学校・職業案内所・・・など「養育」から「教育」そして「自立」への様々な「居場所」をつくりました。
子どもたちの「未来」を・・・
48歳で死ぬまでの間に約3,000人もの孤児を養育し自立させました。
まだ「福祉」という概念(言葉)がない時代に・・・ゆえに「児童福祉の父」と呼ばれてます。
1914年腎臓病に倒れ、48歳の若さで死にました。
その後、大原孫三郎が後を引き継ぐ形で大原孫三郎が岡山孤児院大阪事務所を拡張し、財団法人石井記念大阪愛染園を設立。愛染橋保育所と愛染橋夜学校の事業を引き継いだほか、救済事業研究室を付設(法政大学大原社会問題研究所の前身)。その後は社会福祉法人石井記念愛染園となり、病院、保育園、特別養護老人ホームなどを運営。
その後も、さまざまな変遷を経て、岡山の「新天地育児院」や宮崎の「石井記念友愛社」に・・・そんなカタチとして・・・
そして・・・そこにいる人の心に「カタチのない大切なもの」として・・・
石井十次の「精神」は引き継がれている。
石井記念友愛社
石井十次
社会福祉法人「石井記念友愛社」
21世紀も20年近くが過ぎ、日本や世界は様々な問題を抱えています。また、私たちの身近なところでも少子高齢化、家族や地域のあり方の変化、格差の拡大など数えきれない問題が起きています。
そんな時代にあって、私たち社会福祉法人石井記念友愛社は、時代を超越した石井十次の思想や理念を基本理念としながら活動してきました。そして、これからも人と人との、心の横のつながりを大切にして、本当の意味での福祉、「本物の福祉」を実直かつ真っすぐに目指していきます。
また、私たちは年齢や障害の有無を越えた友愛の地域つくりのため、若い力と発想力を必要としています。
出典 社会福祉法人「石井記念友愛社」↓
めちゃくちゃ素敵な
「居場所」が存在していること
そして、そこにいる「人たち」
の・・・
その「思い」を知ってほしい。
会うことも話すこともなく
関わることが無くても・・・
その大切な「何か」は
僕たちにも繋がっているんだというコト。
その「何か」を信じてほしい。
何故なのか?
1887年「児童福祉の父」と言われる石井十次は、キリスト教信仰に根差し、岡山孤児院を創設し、生涯孤児救済に身を捧げました。人々は、その命を懸けた姿に感動し共鳴しました。十次と同じ岡山教会のメンバーであった堀ミチもその一人でした。
ミチは1911年、十次に相談し、岡山孤児院の裏手にある瑜伽山(ゆがさん)で、十次が町を見下ろしてよく祈ったという土地に、生活困窮者を助けるための家を建て、これを「愛の山 新天地」と名付けました。
ここは、食べ物に困っている人、体の不自由で仕事の無い人、病気の人、親や親族に見放された人、刑務所から出所した人、自殺未遂者、人生に行き詰まりを感じた若者たちが食べ物や宿を求めて集まり、野菜を育てて自炊しました。
当時ミチには、池田 愛という1歳で預けられた孫がいました。ミチはいつも愛に十次の話をし、神を信頼し困窮者に奉仕する生き方が、いかに素晴らしいかを語り聞かせました。ある寒い朝、ボロの浴衣をまとい話す気力もない男性が訪れました。ミチは男性を風呂に入れ、着がえを与え、芋粥を食べさせ、おにぎりをもたせると、男性は何度もお礼を言って立ち去りました。まだ幼い愛が男性の行く末を心配すると、ミチは愛の手を取り、「世の中の食べられない人に私たちの昼食を上げてください」と祈りました。その日の昼食は、お茶と貧しい人々への祈りだけとなりました。
ミチは病人の見舞いに必ず愛を連れて行きました。愛がお見舞い品として古い人形を持って行こうとすると、ミチは「それでは喜ばれないよ」と、一番いいお人形を持たせました。愛にとれば、それは一晩抱いて寝てお別れをするほど大切な人形でしたが、涙をためてお礼を言った病人の目を、愛はいつまでも忘れられませんでした。そのように、愛は祖母の慎ましく慈しみ深い生き方に多大な影響を受けて育ちました。
ミチは病床で愛に対し、「親に育ててもらえない赤ちゃんを育てなさい」と言い残し、1946年に召天しました。当時は岡山も爆撃の爪痕生々しく、捨児や浮浪児がたくさんいました。何の蓄えもありませんでしたが、愛は決意を固め、博愛会の更井良夫医師に相談し、1950年、自宅を開放して、女学生仲間と共に乳児預かり所を開設しました。その後、1951年に養護施設を併設し、1955年に社会福祉法人となりました。
設備は乏しく財政は苦しみの連続でしたが、愛はいつもにこやかに笑顔を絶やしませんでした。自分はいつも赤茶けた黒のスーツ、破れた靴、いつも同じ紺のブラウスを着ているので、子どもが「どうしてあの服ばかり着るの」と聞くと、ユーモアを交えて「夜に洗うと朝には乾いているからよ」と答えたそうです。そのブラウスも職員が端切れを縫い合わせたものでした。
愛は信仰に固く立ち、貧困の中でも希望をもち、子どもへの愛一筋に生きました。その姿は多くの人の心を揺さぶり、多くの若い保母たちが後に従い、多くのサポートを受けながら、数百人の子どもたちを育てることができました。の働きと理念は評価され、1977年に厚生大臣賞/三木記念賞/山陽新聞社賞、1978年に藍綬褒章/中国新聞社賞/中国社会事業功労賞、1988年にソロプチミスト婦人ボランティア賞などを受賞しました。
しかし受賞の際、愛は「私は賞を受けるようなことは何もしていません。ただ一人一人の子どもを可愛いと思い育てただけです。それでも、世の中のお母さんの万分の一も愛していないような申し訳ない気持ちです。私の頼りない所を皆さんが助けて下さりただ感謝です」と述べ、多くの支援者に感謝し、謙虚にこれを受け止めました。
石井十次
から
渡された
種
を
堀ミチ
が
まき
池田愛
が
結実
させたもの
それが
「新天地育児院」
出典 社会福祉法人「新天地育児院」より
↓
おはようございます。2020年9月22日(火曜日)
それでは第百六十七話の「はじまり」です。
今日のお話は「終わり」です。
文章の所在が分からなくなったり、言葉では辿り着けないこともありますが・・・
今日も最後まで読んでくれて本当にありがとうございます!
今日という一日に「少し」の 勇気 を
そんな「種」を
それではまた明日。